「野生のライオン」
平野義久
野生のライオン - 平野義久
ポップスという一音楽様式が、唯一無二のイデオロギー包摂装置としてそのヘゲモニーを拡大・絶対化して久しい。
ところでポップスは、数ある音楽様式の中でも、とりわけ規制的であり、その作曲技法に於いて往々にして発展の無化矮小化が行われている音楽である。形におしたような小節数の統一、構成の一致は、予定調和への無条件的同意であり、またその効用性への過剰な盲信にほかならない。ところで、そんな予定調和的手段の追求は、強固な創造的規制と引換えに、約束された安心性をもたらす。この安心性というものが、ポップスに於いて、少なくとも現在のポップスに於いて、最重要課題となるのだ。刺激は、安心性の枠内に収まるものだけで十分まかなうことが出来る。そこを逸脱するような過剰な刺激は、安心性への侵犯的行為にほかならず、果たして荒唐無稽で忌避すべきものとみなされる。
そしてその安心性とは、ポピュリズムという社会的契約をその本質としていることは、言わずもがなである。ポピュリズムが条件付ける安心性とは、鋼鉄製の鉄格子の頑強さを持っていなければならない。要するに、胸をドキドキさせるライオンは、常に鉄格子の中に入っていなければならないのだ。檻から開放され、野放しにされたライオンは、ただちに銃殺される運命にある・・・。
さて、ここは、愚鈍な一作曲家の独断的ポップス論を陶然として語る場所でないことは重々承知である。僕が言いたいのは、上の考察が、IMERUATの音楽にはあたらない、ということである。
IMERUATは、予定調和的規制からの乖離を前提とした音楽的方法論を摂る。しかも、より重要なのは、その乖離が、アンティ・ポピュリズム的性質を帯びたある種のアナーキズムによるものでは決してなく、純粋に彼らが用いる音楽語法の独自性及び自律性によるものだという点である。上の論考に当て嵌めれば、それは畢竟、社会的契約への違反を意味するのかも知れない。だが、IMERUATは決して断罪されないだろう。
何故なら、IMERUATの音楽は、ポップスではないからである。
浜渦正志氏には、はじめからポップス固有の規制的構成法を摂る発想がない。彼にとって音楽的展開とは、「ABC」などといったフューダリズム的黄金律の使用を意味することでは甚だありえず、旋律と和声進行のイニシアティヴによって得られたアンプロンプチュ的発想に基づくものである。なるほどIMERUATの音楽には、往々にしてポップス的なリズムの運動が聴かれるのは事実である。しかしその上で浜渦氏は、飄然たる態でアンティ・ポップスの自由を謳歌しているのだ!しかも全く以て敬虔なやり方で!
ヴォーカルとシンセサイザーを含めた楽器類を、全く等価においた作・編曲法もまた、ポップスの流儀からは大きく逸脱するものである。あくまでヴォーカル至上主義であることをやめないポップスは、バロック勃興とともに起こったモノディを想起させる単純性を以て、人声を浮き上がらせることを第一目的とした編曲法を絶対的に要求するのに対し、IMERUATが導入する編曲の手法は、人声を含めた楽器全体のアンサンブルを聴かせるものであり、その手法は時に、ラヴェル派や六人組、さらには70年代アメリカのミニマリズムを想起させるスタイルにまで飛翔・発展する。
ポピュリズムとは無縁の、ソノリティ至上主義の音楽が、そこにはあるのだ。先ほど浜渦氏のことを「敬虔な」と言ったが、その真意もここにある。ポップスというイデオロギーが往々にして生み出す大同小異のオポチュニストたちにはとても持ちえないであろう「敬虔な」音楽的探求精神が、より面白い、より美しい響きへの純然たる渇望へとつながり、果たしてそれが、IMERUATの強固な自己同一性に結びついているように僕には思えるのだ。自由を求める敬虔さ。これが音楽家にとってどれほど大切なものであることか・・・・!
そこで考えて見てほしいのである。あなたは鉄格子の中のライオンが見たいですか?それともアフリカのサバンナで自由を謳歌する野生のライオンが見たいですか?僕には、確約された安心のもと、頑丈な鉄格子越しに見るライオンよりも、時には身の危険に脅かされることもあろうが、大地を蹴って縦横無尽に走り回る個体にこそ、ライオンのライオンたる魅力の本質を感じると思うのだが・・・・。
2012年 DEPARTURE TO BLACK OCEAN / IMERUAT 公式パンフレットより
平野義久
作曲家。1971年和歌山県生まれ。主に劇伴や現代音楽の作品を手掛けている。最新作として「HUNTER X HUNTER」(日本テレビ系)「探検ドリランド」(テレビ東京系)。浜渦正志氏とは、氏が作曲を手掛けたFINAL FANTASY ⅩⅢのオーケストレーションの仕事などを通じて知り合い、親交を深める。